オムツ交換に挑戦
長女が誕生し、障がいが分かるまでの8ヶ月間、一度も子どものオムツを交換した事はありませんでした。
現代では怒られかと思いますが、当時の私は、「オムツ交換は、女がするもの」と、決めつけていたからです。
コマーシャルでも、「あなた作る人。私食べる人」、というキャッチフレーズが流行った頃です。現代では、女性からブーイングですよね。
明治生まれの父、大正生まれの母の子どもです。妻からすれば、古臭い考えを持った男だったことでしょう。そんな私が、いまだにオムツ交換をやっています。
長女が少しずつ大人に近づいていく中で、「お父さんなんかにお尻を見せたくないよね!」、と言いながら交換していました。
その時の長女の表情は、目を細め少し恥ずかしそうではありましたが、今始まった事ではなく、生まれてからず~と毎日何回も行ってきたことです。
とは言っても、高校生の頃は、もう女性ですから、どうにかできないものかと思いました。介護者は、妻と私の二人しかいませんので、どうにもできないのですが。
「絶対にオムツ交換はしない」、と公言していた私ですが、二女と合わせると約35年間、オムツ交換をやり続けています。
最近は、体というかお尻というか、重くなりました。オムツ交換にも力が必要です。
ちょっと油断すると、すぐに背中の筋肉や腕の筋を痛めてしまいます。
介護ベッドが電動で上下する分、また、紙おむつの登場により、排せつの介助は非常に楽になりました。
いつまで世話が出来るか分かりませんが、世話ができる、かかわりが必要な時が、幸せな時だと思っています。
ラジオ体操第二でストレッチをしながら、介護を続けています。
しかし、月のものだけは未だに、「何で父ちゃんがせなんとかな。経験せんでよかばってんな~。」と、思わず嘆いてしまいます。
ボランティアに挑戦
施設建設など、はるか夢のまた夢
長女が誕生した当時は、社会福祉法人に勤務していたこともあり、障がいを持った子どものために何かしなければと、まず浮かんだのが障がい児施設の建設です。
あまりにも、既存の障がい児施設の数が少なかったからです。
もちろん建設といっても、下調べからスタートです。障がい児を対象とした施設の種類や機能、施設数。県庁や市役所に足を運び、担当部署の方と相談しながら、色々調べてみました。
やはり建設には、相当の資金が必要です。サラリーマンである私にとって、宝くじでも当たらないかぎり、一生無理は話です。先のことは分かりませんが、とにかく宝くじは買いつづけています。
「父親の会の結成」
施設建設は、まずは諦め、次に取り組んだのが親の会結成です。これもやってみて分かりましたが、既にたくさんの親の会が存在していました。
しかし、ほとんどの会が母親で構成されていたので、父親の会を結成すべく活動してみました。
先にも書きましたが、結果は悲惨なもので人が集まりません。
以前の私と同じで、仕事を理由に子供の障害から目を背けている父親がいかに多いか知る機会となりました。
あまり言いたい事ではないのですが、健常者は、「障がいは自分には関係ない」と考えている人が多いと思います。
本当は、いつなるか分からない。いや、いつでもナル可能性があります。
逆に、障がい者やその家族は、身内に障がい者がいることを隠そうとします。日本社会には、まだまだ閉鎖的な考えや偏見が根強く残っていると感じています。
種々様々な親の会が存在していても、お互いの障がいの違いで、障がい者や親同士が差別しあったり、会を区別したりしている現状には、辛いものを感じました。
新たに障がいを抱えた家族が、安心して身を寄せる会にするためには、まだまだ様々なバリアを崩していく必要性を痛感しました。
「さわやか熊本の結成」
自分の生活を見つめ直してみると、日々何が大変か、身を持って体験したことで理解できます。それは、我が子の介助と、妻の支援です。
寝たきりの娘を介護・介助するには、両親のどちらかが、24時間付きっきりにならなければなりません。これほど、大変な事はありません。
しかし、長女の障がいが分かった頃は、助けてくれる行政の制度は僅かで、支援団体もほとんどありませんでした。「いっそのこと、自分でつくるしかないか」、と思ったほどです。
阪神大震災でボランティアに関心が高まっている頃、今がチャンスと思い、在宅支援のボランティア団体を、K先生の協力と理解のもと設立しました。
東京の「さわやか福祉財団」のご支援をいただき、理事長である堀田力先生のお話をお聞きするために、何度も東京へ出かけました。
堀田先生の奉仕の精神に賛同し、さわやか福祉財団から一部をいただき、団体名を「さわやか熊本」とさせていただきました。
設立をマスコミに取り上げてもらったおかげで、出だし好調。会員も徐々に増え、早い時期に80名を超えるまでになりました。
活動も多くなり、利用者もボランティアもしばらくは感謝の精神で繋がっていました。しかし、月日の経過とともに、運営が今一つうまく行かなくなります。
「家族に代わって家族のように」をモットーに、利用者も徐々に増えていきましたが、ここでも思うように行かない壁にぶつかります。
会員皆さんのボランティア精神で成り立っているのですが、イベント型のボランティアと違って、生活支援のボランティア活動には継続性が必要となってきます。
最初は、快く協力してくれたボランティアさんも、回数が多くなってくると、義務感に縛られた気持ちになるのか、「やめたい」と言いだす人が増えてきたのです。
中には、「たまの依頼ならボランティアでいいが、これだけ続くなら、少しくらいお金をもらわないとやれない」と、言い出す会員まで現れました。
これを回避するには、一人の利用者に複数の協力者を手配するしかないのですが、いざお願いすると、依頼を快く受けてくれる人の少なさに唖然とします。
地域性もあるかもしれませんが、ボランティアをしたいと思う人は増えましたが、実際活動を引き受けてくれる人は増えていなかったのです。
利用者側にも問題が発生しました。当初は、ボランティアに対してあったはずの感謝の心が、徐々に当たり前となり、たまにお断りをすると不満となり、しまいには団体の批判となっていきました。
ボランティア活動をやり始めてから、最も困ったことが発生しました。
本来、自分の家族も含め、団体から手助けをしてもらい、少しでも生活しやすい環境を作り出そうと思っていたのですが、逆になってしまったのです。
私が不足する会員の穴を埋めるべく、活動に時間と体力を取られ、余計に我が家の普段の生活が大変になってしまったのです。
特に日曜日に、依頼者の送迎や家の掃除等を請け負っていました。結果、自分の子どもの介護を軽減するどころか、相当の負担増となりました。
約6年間運営しましたが、会員の皆さんにご理解をいただき、会を設立した責任はともかくとして、運営に係る資金と時間と体力の継続の難しさを痛感し、解散させていただきました。
「禁煙に挑戦」
長女の杏子は、私がタバコを吸って部屋に入るや否や、「くしゃい、くしゃい、やめて~!」と、言っていました。
妻が長女を妊娠して以来、家族の側や家の中、車の中での喫煙はやめていましたが、ホタル族は簡単にはやめられません。
臭いと言われる度に、「もうそろそろ止めようかな?」と、5~6回は禁煙に挑戦しましたが、ことごとく失敗。
最高9ヶ月続いたケースもありましたが、ちょうど社会福祉士の受験勉強時で、「試験が終わったらまた止めるから、今だけ吸わせて。」と、自分で自分と約束し、そのまま不履行となってしまいました。
これを書いている現在、禁煙13年目です。そうです、禁煙成功です。あれだけ失敗を繰り返していた私が、どういう方法で禁煙に成功したのか。
禁煙を考えている方は、恐らく知りたいでしょう。
その秘訣は、禁煙の約束を破れなくするといいのです。
即ち、自分や妻など、簡単に約束を破れる相手としない事です。
長女と、禁煙の約束をしました。但し、条件付きで。
何度も失敗している私です。どちらかというと、吸い続けられるものなら続けたいと思っていました。そこで、「50歳には、絶対止めるから。」と、長女と指切りげんまんをしました。
仕事が医療関係と言う事もあり、お年寄りで酸素ボンベを引いて散歩している方と接する機会があります。
医師に聞いてみました。「どういう人がああなるんですか?」「タバコを吸い続けた人は、全員なるよ!」一瞬、ゾッとしました。「いつ頃までに止めたら間に合いますかね?」「50歳が限度だろう」。
この会話が、禁煙の期限を50歳に決めた理由です。
本当に止められるのか。いくら娘との約束とは言っても、隠れ禁煙では意味がありません。私が48歳の時に、長女は旅立ちました。寂しさを紛らすために、止めるどころか、それからというもの、ヘビースモーカーになってしまいました。
長女と約束した50歳になった年、8月の命日が徐々に近づいてきます。
娘との禁煙の約束の指切りげんまんのシーンが、何回も鮮明に甦ってきます。
ギリギリの7月、思い切ってライターとタバコをゴミ箱へ捨てました。
それからは、飲みに行こうが隣で友人が吸おうが、一本も吸っていません。きっぱりと止めることができました。
以前の私なら、必ず飲み会で一本、友人からチョッと一本と、もらっては「今だけだから」と言い聞かせながら吸った結果、いつもそのまま復活です。
「約束をした相手がいない。約束を破る相手がいない。守るしか道はない。」
この考え方が、私の禁煙の意志を揺らぎないものにしてくれました。不思議なものです。
簡単に揺らいでいた意志が、こうも強くなるかと自分で感心するくらいです。一番、愛する人と約束することが、禁煙の近道かもしれません。