障がいと介護

祖母と義母の愛情

あんずパパ
あんずパパ
母も辛かったと思います。

 

「私の母の愛情」

長女がまだ2~3歳の頃、お盆に私の実家に里帰りをした時のことです。母が近寄ってきたかと思うと、妻に聞こえないように突然、「まこと、無理せんで施設に預けんね。嫁さんもきつかろ。」と、言い出しました。

瞬間的に頭に血が昇り、「なんば言いよっとね。絶対預けん!」と、身体を震わせながら言い返した覚えがあります。母からすれば、自分が背中を押してあげないと、夫婦はつぶれてしまうとでも思ったのでしょう。母だから言える、最大の愛情表現だったと感謝しています。

「移設には絶対入れない!」

確かに、障がいを持った子どもを育てるのは大変です。逃げだしたいという精神的な弱さも重なり、施設に預けようかと何度も悩みました
ですから、母の言葉を聞いた時、頭で理解できても、心で反発してしまいました。母は、それ以来、二度と施設入所のことを話題にすることはありませんでした。

私の持論です。施設に入所させてしまえば介護は楽になりますが、親子ではあっても家族ではなくなってしまいます。家族(親子)である幸せを感じる時とは。それは、同じ屋根の下で暮らすことです。

「家庭の事情はそれぞれ」 比べるものではない!

初めて子どもを一時預ける(ショートステイ)ために、ある障がい児の入所・通所施設を見学に行ったときのことです。障がいの程度は様々ですが、想像以上の人数の子ども達が入所していました。また、障がい児施設なのに、明らかに大人の入所者がいます。

職員の方に質問してみると、「入所している子ども達の親の中には、一緒に生活したくてもできない事情がある人、一度も会いにも来ない人、親が既に他界したため大人になってしまった入所者もいます。」という返事が返ってきました。

特に衝撃を受けたのは、話すこともできない障がい児が同じ部屋に集められ、そのお世話を職員が淡々と行っている場面です。そこには、親子の触れ合いなど存在しません。子供の笑い声も笑顔もありません。

事情がそれぞれあり単純なことではないと理解しつつも、一人の親として、子どもたちが可哀そうでなりませんでした。私の心の奥底に強い気持ちとして、「おれが死んでも絶対、杏子は施設には入れんぞ!」と誓った瞬間です。

「孫が先に旅立つという悲しさと辛さ」

妻の母の愛情にも、感謝しています。待望の初孫が障がい児。祖母としてのショックも相当なものだっただろうと想像します。自分の娘が、障がい児を産んだという私への気遣いもあったのではとも思います。

長女の杏子が一番好きだったのは、義母です。悔しいですが、私でも妻でもありません。それだけ、杏子に深い愛情で接していただいた証拠だと思います。
毎日欠かさず、電話で1時間以上もの会話をしていましたので、長女が旅立って一番寂しい思いをしていたのは、義母だと思います。

ある日、娘は電話のダイヤルはできませんので、私がベッドの横で義母に電話をかけてやりました。いつもと変わらぬ、ばあちゃんとの会話の始まりです。

義母「モモちゃん、今日はお父さんはおるとね?」。すかさず杏子、「お父さんは、パチンコ!」。何の躊躇もない返答に、思わず私は吹き出してしまいました。
もちろん、私はベッドの横にいて、義母に「ここにおるよ!」と叫びました。その瞬間、杏子がしかめっ面となり「やっちまった!」と言わんばかりの私への表情がおかしくて、今でもそのシーンが脳裏に焼き付いていて、思い出しては懐かしく思っています。

義母が私が運営する杏心の丘に入居するまでは、杏子の代わりにはならないと思いますが、毎日、娘である妻が、電話を欠かさずしていました。これには、感心しています。

私の母は、杏子より先に旅立ちました。義母は、私が運営するサ高住で約6年弱生活し、3年前に94歳で旅立ちました。変な話かもしれませんが、義母にとって孫が自分より先に旅立つという経験は、「一回で済ませてあげたい」、と願っていました。義母の息子には、孫はいませんでした。

たった2人の孫が、共に自分より先に旅立つなど、こんな悲しいく辛いことはないと思います。私も妻も辛いですが、こんな経験は私たち親だけで十分です。心から義母には、経験させたくないと思っていました。

神様に、というか杏子の仏壇に向かって、妹だけは義母より先に旅立たない様日々お願いしていました。願いが叶ったのか、おかげ様で妹の杏菜は令和4年3月で30歳となります。

あんずパパ
あんずパパ
2人の母に感謝です。