障がいと介護

夢の崩壊

新たな命に名前を付ける

結婚して1年3ヵ月、めでたく第一子が誕生しました。
私は、自分がこの世に存在した証は、息子が出来る事だと考えていました。
ですから男の名前しか考えていませんでした。なんか昭和ですかね。
妻は逆に、女の子が欲しかったらしく女の子の名前だけ考えていたようです。
新たな命に名前と付ける。最初の子供ほど、誰しもがワクワクすることです。
命名に関する本を何冊も買ってきて、紙に書いては字画が悪いとか漢字が難しいとか、今でもはっきり覚えているくらい楽しい、結婚式のケーキカットに次ぐ妻との共同作業でした。

普通の家庭から特別な家庭へ一挙に転落

子供が誕生してからというもの、一秒でも早く家に帰ろうと仕事に力が入り日々充実した生活です。
「仕事も頑張る。家庭も大事にする。」ここまでは、一般的な新婚家庭となんら変わらないバラ色の人生のスタートです。
昭和63年2月、私たちの夢を根こそぎ奪っていく出来事が起こるとは、思ってもいませんでした。
この日を境に、私たちの「普通の家庭」は「特別な家庭」に180度、言い換えれば「幸せな家庭」から「不幸な家庭」に、約4年程度ではありましたが一変してしまったのです。
長女の名前は、杏子(ももこ)と命名しました。もちろん妻が考えていたある俳人から
いただいた名です。
杏子は、普通の子供と最初は何ら変わったところなどありません。というか、私たちにとって初めての経験だったため、分からなかったのが事実です。
首の座りや寝返りが遅いような気はしていましたが、保健所の健診では「個人差がありますから、その内できますよ。」との説明。親としても「そんなもんなんだろうな?」と、何ら心配していませんでした。

早目に悲劇を味合うはめに

生後7ヵ月の保健所の乳児健診で、「抱き上げるとき、ちょっと肩がおかしいような気がします。」と、いつもと違う医師の説明。
「紹介状を書いてあげますから、一度専門の先生に診てもらって下さい。」という言葉に、驚き慌てた妻から職場に電話がありました。
内容を聞いた私は、一挙に心臓の鼓動が高まりました。
この時診察していただいた先生が、たまたま私たちの子供と同じ病気の子供を診察した経験があり、この手の病気にしては比較的早い時期に発見できたようです。
その分、早目に悲劇を味合うはめになりました。その時は、冷静に受け止めることができませんでした。
今考えてみれば、遅くなればなるほど衝撃が大きかったのではないかと思います。とにかく不安でした。
先生からは、はっきりしたことは何も説明がなく、すぐに妻に専門医を紹介してくれました。

私の子供に限って

一連の話を電話で聞いた私は、半ば軽い調子で、「心配するより、とにかく専門病院に行ってみたら。」と妻の母に付き添いをお願いし、自分は付き添って行きませんでした。
しばらくして2回目の診察があり、1回目のときに血液検査をしたにもかかわらず、もう一度検査をしたいとの医師からの申し出がありました。
2度とも私は付き添わず、妻から多少冷たいと思われた節もありましたが、「私の子供に限って」という、悪く思いたくない気持ちからの行動でした。