「一人でゆっくりお風呂に入りたい!」
確かに、以前より精神的に強くなりました。わが子が障がいを持って生まれて来た意味を、仕事で表せないかと転職もしました。しかし、現実はそんなにあまいものではありません。仕事の重圧(業績)。障がい児がいるからと、いい加減な仕事はできません。誰も同情などしてくれません。家庭に帰っても、仕事があるからと、妻からの父親としての要求は減りません。父親の代わりはいませんので、当然と言えば当然です。
子どもといっても寝たきりともなれば、食事・お風呂・排泄など、すべて介助が必要です。寝ていても、寝返りができないため、多い時は一晩に6回起こされます。お風呂も、たまには一人でゆっくり入りたいと思うこともあります。
疲れて帰っても、会議で遅くなっても、妻は、平然と子どもの入浴を要求してきます。仕事疲れを取るためのお風呂のはずが、入浴介助となり大きなストレスとなっていました。
「子どもをお風呂に入れて!」「疲れとるけん、明日じゃダメね?」「疲れとるとはみんな同じたい。汗かてるけん、入!」「おれんこつは、どぎゃんでんよかつか!」と、大喧嘩を何度もやりました。
「家出をしたい!逃げ出したい!」
ショックから立ち直ったと思っていましたが、錯覚でした。仕事と家庭のバランスを取るのは難しく、家出をしたい、逃げ出したと思う日々が、毎週何度も訪れます。とにかく、今出来ることをと思い、取り組んではみますが一つも満足できるものはありません。
一つ壁にぶつかる度に、「なにもできんな、おれは」と、ため息をつく日々。家庭の状況はますます悪化するばかりで、よけいにめいってしまいます。子供の障がいが進行するのに合わせ、想像していた以上に、大変さが増していきます。
ある年の9月、2日間というハードスケジュールで仙台出張から帰宅したときの事です。熊本の天候は雨。夜の9時過ぎに、やっと我が家に帰り着いたのですが、玄関を入ったとたん、私の心にも雨が降ってきました。
出張から帰ってきた時、必ずと言っていいほど、妻は不機嫌な表情で出迎えます。一言の「お疲れ様でした」が貰えず、いかにも「あなたがいなかった分、私は子供の世話で大変疲れているんだから」と、言わんばかりです。たかが、思いやりの言葉を掛ける後先の問題なのですが、どうしても不愉快な雰囲気になってしまいます。
不機嫌な態度はよしとしても、一息つく暇もなく、子供をお風呂に入れなくてはなりません。「明日ではだめか?」と妻に聞いても、いつも答えは同じ。「今日も汗かいてるから、入れんと」。そこには、一見少しも私の疲労など眼中にない、妻の冷たさしかないように思えてしまいます。
「異常な精神状態」
やっと入浴介助も終わり、「今日も一日終わった。寝るぞ!」と床につくも、早速子供の夜泣きが始まります。夜中の1時、2時、3時と、昨日いなかったせいか、なかなか治まりません。
いらだつ私は、子供の頬をたたき、頭をたたきと、世間的言う虐待が始まります。娘をたたく度に、「いけない」と思いつつも、あまりの辛さに首を絞めたくなってしまいそうになります。
出張の疲れで増幅したいらだちを、このままでは抑えきれない。異常な精神状態が近づいていることを感じた私は、明け方4時に「24時間営業のファミレスにでも行くか」と、仕事着に着替え家を出ました。「このまま家にいたら、本当に子供を殺してしまいそうだ」。こみ上げるものを抑えながら、妻に気付かれないよう家を飛び出しました。
「悪魔がくれた子供」と思ってはいけないのか!?
当時不況のせいか、以前24時間営業だったレストランが開いていません。30分ほど市内をぐるぐる回り、やっと一軒見つけました。4台ほど車が止まっていましたが、店にいたのは若いカップルばかりです。みんな朝の4時過ぎにもかかわらず、若さなのか楽しそうに会話を弾ませています。
ふと、「俺たち夫婦も昔はそうだったよな」と思ってしまいました。目の前にいるカップルと同じように、将来について時間のたつのも忘れ、話し込んだ思い出がよみがえります。それが今では、「なんでこんな人生になってしまったんだ」と嘆く日々が、繰り返し繰り返しやってくる生活になってしまいました。
障がい児を持った親は、よく言います。「この子は、神様がくれた」と。本当にそうでしょうか。人間、プラス思考でなければならないと言いますが、マイナス思考ではいけないのでしょうか。「悪魔がくれた子供」と思っては、いけないのでしょうか。
「健常な子供が欲しい。普通の暮らしがしたい!」
確かに、幾度も、ものの見方考え方で世の中は変わるという体験をしてきました。しかし、現実、例えば、毎日ほとんどまともに眠れない。眠れないならともかく、眠らせてもらえない。一種の拷問です。体調や頭はおかしくなり、仕事にも悪影響がでてきます。
子供の手足とならなければならない毎日。普通の家族のように暮らしたくても、出来ないことがたくさんあります。もちろん、些細なことに喜びを感じることができる自分にしてくれたことは、子供に感謝しています。
小さな感動をたくさん体験できなくてもいいから、一般的にいう健常者、普通の家族と同じような生活がしたい。それが、私の正直な気持ちです。「神様が、自分に、あるいは我が子に障がいを与えてくれたので、普通では体験できないことが出来て感謝しています。」など、到底思えません。
まだまだ4~5年の経験では、「この子は神様からの贈りも」と、感謝するような気持にはなれなかったのです。「普通の生活」がしたい。日々平平凡凡。特別な生活は、いりません。普通が、最も素晴らしいことだと思います。
確かに、今のような生活を体験したからこそ、それなりの喜びにも気付いたのですが、やはり「障がいはない方が素晴らしい(ありがたい)」と思います。
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