障がいと介護

娘がつないだご縁

あんずパパ
あんずパパ
長女に障がいがなかったら、絶対にお会いすることはなかったと思っています。

K先生との出会いと期待

娘の障がいを境に、「私は、いったい何をしなければならないのか?」と、よく考えるようになりました。

私は、「自分たちの様に障がい児をかかえた家族が、人生を悲観せず、安心して地域で暮らしていけるための手助けをする」ことが、自分に与えられた使命だと確信し、新たなスタート(転職)を切りました。

長女が誕生した頃は、社会福祉法人の事務長の仕事に就いていました。
安定した仕事を辞めることに対し、妻も義母も反対で、「なんでそぎゃん安定した仕事ばやめなんと?!」と、特に義母には、相当な不安を与え心配もしてもらいました。

一日でも早く、次の仕事を探さなければと思いますが、何でもいいわけではありません。
知人、友人、片っ端から就職のお願いをして回りました。

自分が退職する理由やどんな職業を探しているのか等、しっかりと説明し、紹介をお願いしました。その甲斐あって、大学生の頃からお世話になっている方からお電話をいただき、「おもしろい先生(医師)がいるけど、あってみらんね。」、という内容でした。返事は、「ぜひ、お願いします!」と即答。

おもしろい先生とは、K先生のことで、ご夫妻とも医師でした。K先生と2時間ほど、将来についてお話したかと思います。
将来ビジョンにお互いが共感し、即決で、K先生が院長を務める病院で採用していただくことになりました。

まさか まさか で頭が真っ白!!

その時の私は、「清掃担当でも何でも構いませんので、まずは採用してください。実力で上を目指しますので。」と、とにかくK先生と一緒に仕事ができることに価値があるかのようなことを、アピールしました。

具体的に仕事内容や待遇より、「誰と何ができるか」が私にとっては重要な事でした。

喜びもつかの間、K先生から数日後呼び出しがあり、行ってみると「申し訳ない。採用できないことになってしまった。」と、採用取り消しのお話です。

院長といっても、経営者ではなく雇われている立場上、理事長の反対に合ったようでした。K先生との出会い、新たな職場が見つかったと家族でも喜んでいました。

おまけに、採用が内定していた他の職場をすべてお断りした後のお話であったため、「こらから生活を支えるためにどうしよう。」と、顔が青ざめました。
一番青ざめたのは、K先生だったと思います。私と約束した事を、理事長の命令で却下されたのですから。

まさか まさか 約束の実現!!!

その時、二人で新たな約束を交わしました。時期や内容は不明確でしたが、「とにかく将来一緒に仕事をしようね。」、という約束です。

それから3年後の平成3年12月、K先生からの突然の電話。「突然でビックリしたろ。」「ハイ、ビックリしました。お久しぶりです。何事かでもありましたか?」「なんて思う?実は、開業するとたい。帰ってこれるね?」という、約束を果たすための内容でした。

驚きと喜びとで胸が高鳴り、戸惑いで頭は一杯になりました。
さらに、開業のために購入する診療所の持ち主が東京に住んでいるため、購入の交渉の帰りに浜松に立ち寄るという内容です。ドキドキわくわくしました。

浜松駅で待ち合わせ、近くの食堂でうなぎが三段に敷き詰められたうな重を二人で食べながら、「さすが浜松。ウナギの大きさと量が半端じゃないね!」と感心しながら、開業に付いて限られた時間での打ち合わせた数時間は、今でもハッキリと覚えています。

K先生を駅で見送る際、持っている中で一番高級な傘を、駅の新幹線ホームに忘れて帰りました。それ以前もそれ以降も、傘を置き忘れた事はありません。
それ程、ホームで先生を見送った後の私は、一種の放心状態のようになり、しばらくボートしていたように思えます。

希望していた仕事ができる。一言でいえば、嬉しい事なのですが、3年も前に口頭だけで約束をしたことが実現することには、やはり驚きました。

更に丁度、K先生から開業のお電話をいただいた数日前に、なんと当時の職場から業績責任者の辞令をいただいていたのです。これには戸惑いました。

帰省までに8ヶ月 それからあっという間の30年

静岡県浜松市の駅前に事務所がある、中小企業を対象とした経営コンサルタントの会社に勤務していましたが、やっとチーフコンサルタントの役職をいただき、やる気満々の状態でした。

立場上も、簡単には退職できません。クライアント会社の社長の了承がなければ、転職などできません。
経営コンサルタントは、自分が商品です。自分を信じて気に入っていただいたからこそ、顧問契約を結んでいただいています。これには、本当に困りました。

私の後任として、日本全国に十カ所の拠点がありましたので、所長予定者が派遣されてきます。その人を引きつれて各顧問先を訪問し、退職に至る事情を説明し、新所長を紹介して回りました。

困ったことに、浜松は新拠点として私が中心となり開拓したクライアントがほとんどでしたので、なかなか新所長のOKを各社長からいただけません。

12月にK先生からお電話をいただき、即退職願を出したのですが、退職できたのは翌年の8月。やっと3人目の新所長で了解をいただいたのですが、8カ月もの月日を要しました。

帰省する前日まで、泊りがけの営業マン研修をこなし、翌日その足で家族を引き連れ、新幹線と飛行機を乗り継ぎ、懐かしの熊本へ帰ってきました。

退職願を提出してから、8か月の期間、K先生には本当にご迷惑をお掛けしました。
私がなかなか退職出来なかったために、K先生の診療所の5月開業に間にあわず、先生自らに開業の諸手続等行っていただくなど、やきもきされたことと思います。

二女が、まだ生後4カ月での出来事です。二女の年齢を数える度に、開業年数を再確認しています。
これは、「きっと娘がつないだ縁だ。K先生と一緒に仕事をしなさいと、杏子が結びつけたに違いない。」、と思っています。
杏子がいなければ、K先生との出会いはなかったからです。

あんずパパ
あんずパパ
それから早30年。令和4年4月の30周年を迎えるまで、共有する夢である「安心ネットワーク」の実現のため、同じ道を歩ませていただきました。33歳から社会人人生のほとんどを費やし、充実した仕事ができ感謝しています。