障がいと介護

夢はバラ色 育った環境の裏返し

私のふるさと

私が生まれ育った故郷は、不知火町松合という海と山に囲まれた漁村です。
何か困ったことがあれば、自然とご近所さんが助けてくれる暮らしやすい村でした。
そのお蔭もあり、経済的に苦しい我が家でしたが、何とか生活して行くことができました。
夕食のおかずにと、ちょくちょくお魚をいただいたものです。

国民健康保険法が出来たばかり

父は15年間寝たきりでしたが、他界するまで一度も入院していません(させてあげれなかった)。
国民健康保険法が制定されたのが、昭和33年、施行が34年4月からで国民皆保険が実現したのが昭和36年4月からです。私が1歳の時は、昭和35年です。
現在、国保の75歳以上の自己負担が3割になると騒いでいますが、当初は5割負担でした。
それからすれば現代はありがたいものです。
父を入院させたくとも、経済的に無理でした。

介護保険制度も在宅医療もない

介護の担い手は、母と私の二人です。
私は今で言う、「ヤングケアラー」です。当時は、私の様な家庭を気にしてくれる行政機関の人や制度もなく、学業や友人との遊びにも多大な影響がありました。

特に介護が大変だったのが中学生の時です。学校から帰ってから遊びにも行けず、学業も予習・復習など家で出来るような環境ではありませんでした。
現在は、「ヤングケアラー」という題名の書籍も多数あり、世の中の人が知る機会が増えたことは大変明るいニュースですが、私が中学の時から既に50年近くが経過しています。それまで社会にとって無関心な出来事だったのか、それとも高齢社会になって介護の実態が別の角度からも見えてきたのか?
ぜひ、ヤングケアラーに光を当てて欲しいものです。

私は、昼間は学校に行っているので、事実上母一人で介護をしていたようなものです。
しかし、母も仕事に出かけなければなりません。そんな時、父は自宅で独りぼっちです。
当然、当時は介護保険制度も在宅医療もありません。
そこでご近所の力。お願いすれば、定時に見回ってくれちょっとした介助をしてくれました。

テレビの自家製リモコンで父が大喜び

当時のテレビには、まだリモコンと言う便利な道具はありませんでした。
寝たきりの父の一番の楽しみは、テレビです。特にジャイアント馬場のプロレスが大好きで、テレビの前で興奮しながら「はよけらんか!」と叫んでいます。父の脳の血管がまた切れるのではないかと、真剣に心配したものです。

ただ残念なことに、身体の機能上テレビのチャンネルを変えることができません。
そこで小学生の知恵で考えに考えた自家製リモコンを作りました。
丁度長い木の杖があったので、その先をチャンネルの溝に差し込めるように削り、T字型の取っ手を利用して回るようにしてあげました。「まこと、最高傑作ぞ!」と涙を流して喜んでくれました。

父の気持ち

狭い家なので、父が寝ている部屋がテレビを見る部屋であり、食事をする部屋でもありました。
中学生の頃、毎日のように食事をする私をジ~と見つめる父と目があいました。
そんな父が嫌で母に「食事がまずくなるから、見ないように言ってよ」と頼んだ記憶があります。

自分が父親になって分かったような気がします。
息子の成長を感じながら、何もしてあげれない自分を責めていたのではないか?まだ中学生の息子を残してあの世に旅立つかもしれない自分の人生を悲しんでいたのではないかと。

地域の診療所 兼 地域の縁側

私の家は、村で「浜小浦」(はまんこら)と呼ばれており、村のバス停でもありました。
また、無医村でしたので、週に2回隣町の医師が出張診療に来ていました。その診察の場所が、我が家でした。玄関の横には縁側があり、母が毎日「お茶でも飲んでいかんね」と声をかけ、お茶おけはお漬物。
貧乏でしたが、世間話に花が咲く明るい我が家でした。

育った環境の裏返し バラ色の未来予想図

こんな環境で育った私は、いつの日か家庭を持ち、自分が父親として子供と交わる未来予想図を描くようになりました。
そう、自分の体験と真反対の日常生活と家族図です。
それは、どんなバラ色の未来予想図なのか。次回に書きたいと思います。