『入退院の辛い日々』
普通の家庭と思えるようになったとは言っても、子どもが交代で入院することは大変な出来事でした。
仕事と家庭の両立もうまくいかず、私も妻から、「杏子はててなし子!」と言われていました。男が仕事に集中できる環境は、幸せな事なのかもしれませんが、妻の支えがあってこそ、できることです。
子どもが一人入院するということは、どちらかの子どもを面倒見ながら仕事をしなければならないということになります。
どういう訳か、娘のどちらかが5月の連休、お盆や正月休みになると入院をしなければならない病気(肺炎が多かった)をしていました。
丁度の休みに病気をすることは、ある意味タイミングがよく、助かることでもあります。本当は病気をしないことがなによりですが、普通の日に入院ともなれば、仕事ができなくなります。
障がいがあり、自分では看護師を呼ぶこともできない娘です。入院ともなれば、親同伴となります。平日は妻が付添、休日の前日の夜に私が宿泊し、休日の夕方また交代をします。
病院ですから、夜もゆっくり寝ることなどできません。泊まるためのベッドも用意されていませんので、キャンプ用の折りたたみベッドを持ちこみ、個室が取れた時はそれに寝ていました。
四人部屋しか空いていない時は、悲惨です。ベッドが持ち込めませんので、床にキャンプ用のマットを敷き、ベッドと壁の間に寝るしかありません。せめて、個室くらい、簡易ベッドを置いてくれないかお願いしました。
先日、呼吸器のテストで数年ぶりに入院しましたが、小児入院部屋の増築が行われていて、待望の家族が泊まれる広さと折りたたみのソファーベッドが導入されていました。ありがたい事です。
長女が二十歳に近づくと、休日にタイミングよく入院とはいかなくなりました。妹も手術の必要が何回もあり、胃ろうや気管切開の時は、仕事と長女の面倒で相当大変な経験をしました。
長女の最後の入院時は、妹の世話と仕事の両立、これも大変でした。特に新病院への移転の業務真っ最中で、本当にきつく「社会人の中で一番辛く大変な毎日」でした。
「優秀な主夫になれるかも!?」
妹が入院した時は、長女の通学のための朝の身支度と朝食を食べさせ、学校に送ってから職場に向かいました。
学校の終わりの時間は仕事の終業時間より早いので、仕事の途中で迎えに行き、職場に一旦連れて来て、運営しているデイサービスに預かってもらっていました。
デイサービスのおばあちゃん達から、「みとくけん。行ってきなっせ。」とか、「どこに行くとね。こぎゃん娘ばおいて。可哀そか!」と、ありがたい声援をいただいていました。
杏子は、自分の口で食べる機能が残っていましたので、夕食を作る必要もあります。仕事から帰ってから作ることは、大変です。ご飯は炊きますが、おかずのほとんどは、スーパーやコンビニから買ってくることが多かったと思います。
その中で、特に杏子が好きなものがありました。なかなか食べてくれない時は、好物作戦。一番が、握り寿司。二番が、セブンイレブンのパリパリ焼きそばをタレでしっかり軟くしたもの。三番目は、味の素の冷凍餃子です。よく食べてくれました。
入浴は、ヘルパーにお願いしていたので助かりましたが、仕事をしながら家の掃除・洗濯、朝食・夕食、通学のための身支度等、本当に疲れる日常でした。この経験の成果で、優秀な主夫になれると、本当に思ったほどです。
「長女の最後の入院」
長女が入院した時は、二女と一緒に職場に向かい、机の後ろにベッドを置き、体位変換や食事、オムツ交換等の世話をやりながら仕事を続けました。
出かける時は、スタッフにお願いし、何かあったら病院でもありますので、看護師に支えてもらうようにしていました。まさか、これが最後の入院になるとは思ってもいませんでした。
病院からの妻の電話。「もう家には帰れないと思う?」という言葉に、「そぎゃんこつのあるもんか!」と言い返したものの、体はウソを付けませんでした。
この会話を境に、床に付きしばらくすると、毎日涙が込み上げてきます。コントロールができません。悲しいとか泣きたいとか思っているわけではないのに、涙があふれてくるのです。
何日続いた頃でしょうか。今度は、熱いお茶を飲むと、胃のあたりがヒリヒリします。生まれて初めての胃潰瘍ができていました。
自律神経もおかしくなり、自分ではその異常に気づくことさえできなくなっていました。杏菜の面倒を見ながら仕事を続ける中、自分のことに気付く余裕などありませんでした。残念ながら、潰瘍は完治せず、いまだに薬のお世話になっています。