「通り過ぎる人 見過ごせない人」
ある日、デパートの下りエスカレーターの前で立ち往生している親子を見かけました。困った様子ですが、目の中に入らないのか、その横を何人もの人がスーッと通り過ぎて行きます。
20歳代のお母さんが、子どもを左手で抱きかかえ、右手には荷物を持ち、その横には乳母車がありました。一人で歩けそうな子どもさんでしたが、気持よさそうにお母さんの胸の中で眠っています。
見た瞬間、乳母車をどうやってエスかレターに乗せようか困っていると察した私は、小走りで駆け寄り、「私が持ちましょうか」と、声をかけました。お母さんの可愛らしい笑顔とともに、「お願いします」…。
どこにでもありそうな出来事ですが、そこには、「何も気づかないかのように通り過ぎていく人」、「少しバツが悪そうに通り過ぎて行く人」、「気軽に手を貸してくれる人」、大きく分けて三つのタイプが存在します。
何が違うのでしょうか。何がそうさせるのでしょうか。他人のことなので正しくは分かりませんが、私はもともと二番目のタイプです。そんな私が三番目のタイプである、「声をかけることができる人」になれた理由を探る事により、その違いについえ少し考えてみることにします。
「何かを感じる事が出来る人間に変身?」
私は、二人の娘の障がいを通じて、普通であれば無関心な出来事にも、何かを感じる人間に変われたような気がしています。その中のほんの一例ですが、私たち家族を見る「人の視線」に、面白い違いがあるのに気づかされました。
例えば、公園やレストランで何か困っている様子の障がい児・者を見かけたとします。あなたなら「どういう行動」、という前に「どういう視線」を送りますか。
ジーと見つめますか、優しい目で近寄って声をかけますか、それとも〝瞬時〟に目を逸らし無視しますか。
先ほどのエスカレーターの出来事と同じで、この違いには何か一種の法則があるように思えます。それは、年齢です。何歳から何歳、というふうに明確には区切れませんが、ある年齢層に共通の特徴があります。
「杏子は、初めて遭遇する宇宙人」
全ての人が、ということではありませんが、まず、小さい子どもは、娘の障がいを見ても何の違和感もなく、無邪気に近寄ってきます。そして、いきなりの直球質問です。「なんで、車イスに乗っとると?」「歩けんからだよ。」「なんで、歩けんと?」「病気で歩けんとよ。」「ふ~ん。」「車イスに乗っている人がいたら、手伝ってあげてね。」「うん。わかった!」。
非常に素直なやり取りです。それが小学生くらいになると、「初めて遭遇する宇宙人」でも見るかのように、ひたすらジーと見つめます。若者は、手を貸してあげたいけれど照れくささが優先するのか、モジモジしているように見えます。そして大人は、目を逸らします。いつ頃からそうなるのでしょうか。
「優しい心の形成を阻害する要因では?」
ここで、大きな疑問にぶつかります。無邪気に近寄ってきていた子どもが、なぜ成長するにつれて障がい児・者から遠ざかっていくのか。人の「優しい心」を形成する上で、何か阻害する重要な問題が、隠されているように思えてなりません。
世の中の制度や建物等のほとんどは、大人がつくります。その大人の心が、障がい児・者から目を逸らすようでは、「優しい人づくり」などできるはずもありません。
私の娘に話しかけようと、無邪気に近寄ってくる子どもの手を慌てて引っ張り、強引に連れ戻す母親。その瞬間、我が子に向かって「なんばしよっとね!こっちこんね!」とおしかりの言葉。私に向かって一言、「すみません」と謝られます。
何が「すみません」なのか。子どもは、確実に誤解します。障がい児には、話しかけてはいけないと。お母さんも、一緒に近寄って来ていただきたいものです。
娘の曲がった足を、ジーと見つめ続ける子ども。仕方ありません。宇宙人のような子どもと遊んだことがないのですから。小さいときから一緒に遊んで欲しいものです。「見かけは宇宙人でも、同じ地球人であり、あなたと同じ子どもだよ。友達になってよ。」
「〇〇養護学校へ入学を“命ずる”」
照れくさいのも分かります。いい事をすると照れくさくなる国ですから。照れくささが当たり前の国にしましょう、一緒に。モジモジもするでしょう。どうしたらいいか、接したことがないから分かりませんよね。小さい時から隔離されているようなものですから。
娘は、幼稚園も小学校も同級生と一緒に通学し、同じ教室で学び、皆と運動場で大声出して遊びたいと思っていたに違いありません。自分で普通並みに表現することはできませんが、学年問わず、養護学校の友達の名前をフルネームで言えるくらい大好きでしたから。
小学校に入る時、県から「○○養護学校へ入学を〝命ずる〟」という通知が届きました。言葉では表すことのできない程の怒りと悲しみが込み上げ、〝命ずる〟という文字から、しばらく目が離れませんでした。
普通学校へ入学したいとお願いしましたが、親同伴を条件とされます。下の子も障がい児なので絶対不可能です。こういう決まり事は、目を逸らす大人が作ったものです。
「優しいまち」が、そんな大人に創れるでしょうか。私は、子どもの時から「優しい心」を育くむ教育の再構築がない限り、どんなに討議を重ねたとしても、よいまちなど創れないと思います。
「障がい児・者は特別な存在!?」
今日、交通事故で障がい者になるかもしれません。誰でも障がい者になる可能性を持っているはずなのに、障がい児・者は特別な存在のように思われてきました。
現在は、超高齢社会を迎えています。全ての人間が、100%確実に老います。自然増で、加齢にともなう障がい者が増え続けます。
こうは思いたくないのですが、やっと自分も障がい者になるかもしれないと誰もが気づき始めたから、昨今、福祉のまちづくりが叫ばれるようになったのだろうかと。
悲しい考え方だと思います。障がいを持った子どもと生活をして35年。障がい児・者に対して、決して「やさしいまち」「福祉のまち」ではなかったから、そう思ってしまいます。
「優しい人づくりが、優しいまちづくり」
「優しいまちづくり」には、年月はかかっても優しい心を育む環境、即ち人づくりに力を傾注することがなによりも大切だと思います。今でも、福祉のまちづくりの必要性を真に理解している人達を多く参画させることにより、実現可能だとも考えます。
制度やハードの整備も欠かせないことですが、既に、優しい心を持った人の住むまちは「福祉のまち」なのだということに気づくことが、もっとも重要なことかもしれません。
特異な環境を授かった私自身も、障がい者やその家族とのふれあいから学んだ体験を、これからの「優しいまちづくり」に活かしていきたいと思います。
そうすることが、障害を持って生まれた「娘たちからもらったメッセージ」を受け止めたことなると確信するからです。