障がいと介護

『虐待と衝動は違う』

あんずパパ
あんずパパ
二度と体験したくない事です。

妹にも姉と同じ難病の診断

以前の私なら、二女の障がいの診断結果を聞いた途端、また泣き崩れていたことでしょう。私の望は、健常児でしたから。姉は8ヵ月を要しましたが、妹は誕生してわずか1週間後の診断結果でした。

子どもは、親を選んでこの世に生を受けると言います。二女は、国際的にも通用するようにと杏菜(アンナ)と名付けました。杏子も杏菜も、私たちだから、親として選んで生まれて来たのだと思っています。もし、他の夫婦だったら、私の経験から考えて、極端かもしれませんが、殺していたかもしれないと思うからです。事実、私も何度杏子を殺したいと思ったかわかりません。

娘の首に手をかける

今まで二度だけ、杏子の首に手をかけてしまいました。
一度目は、日に日に衰えて、自分では何もできず、毎日きつい思いをして生きている娘を楽にしてあげたい、という思いからでした。

寝ている娘の首に手をかけた瞬間、娘がパッと目を覚まし、思わず手を離しました。娘と目が合った瞬間、「あ~苦しかった~」という、笑顔交じりの娘の言葉に救われました。たまにふざけて、「殺してやる~」と、首を絞めるマネをしたことがありました。それと同じと思ってくれたのでしょう。

私は真っ赤な目をしながら、「苦しかったろ~が」と、ごまかした辛い思い出です。思い出すたび、今でも胸が苦しくなり、心から杏子に申し訳なかったと詫びています。

二度目は先にも書きましたが、毎晩仕事で疲れている私を寝させてくれない。自分がきつくてたまらないことから来る、衝動的な行動です。とても辛く悲しい体験です。

現在も杏菜の夜間介護で、毎日まともに寝れませんが、杏子に鍛えてもらったので、今では、きついですが精神的には普段の事として過ごすことができています。

介護疲れによる悲しい出来事

ある日テレビで、認知症の奥さんの介護に疲れた高齢のご主人が、無理心中を図ったというニュース。母親が、障がいを持った我が子の将来に悲観的になり、子どもを思うからこそ、手にかけたという新聞記事。悲しい事件です。

世間の人は、こういう事を虐待と言います。私の主観ですが、「虐待は、意識的に行う暴力」だと思います。「衝動は、本能的に行う行為」だと思います。

とっさに手が出てしまう。感情を抑えきれずに、とんでもない言葉を投げつけてしまう。その瞬間、「しまった」と、涙を流しながら嘆き悲しむのは、当の本人です。すごく辛く悲しい行為です。私がそうでした。

新聞記事のように、家族が取った行動には賛成できませんが、自分の事のように気持ちは理解できます。身近に、誰かタオルを投げてくれる人はいなかったのか、残念でなりません。少しでも、自分がこのタオルを投げる人になれないか。あるいは、そういう地域や仕組みを作れないか。今の仕事の原動力にもなっています。

動物から学ぶ『親の愛・親子の絆』

親が子を殺す。子が親を殺す。最近、考えられない出来事・事件が、テレビから流れてきます。通りがかりの人を、「誰でもよかった」とナイフで刺したというニュース。何かがおかしい。どう育てれば、そんな人間に育つのだろうと、考えさせられます。

赤ちゃんが、殺人者になるプログラムを生まれ持ってくるはずもありません。育つ過程の中の何かが、そうさせるのだろうと思います。その何かとは何か。禅問答みたいですが、私は、親の愛情不足ではないかと思っています。

私の娘たちは、一人ぼっちにしたら、数日間で死んでしまいます。野鳥の子育てをテレビで見ていると、親は一生懸命子どもに食べさせようと、一日数百キロにもおよぶ距離を飛び回ります。捕まえた餌を自分が食べるのではなく、真っ先に子どもの口に運びます。毎日毎日、雨が降ろうが天敵に襲われようが、餌を運びます。

そんな愛情を注いだ子供を、ある日自立できると判断した親は、一見あっさりと強引に巣を追い出します。

私も妻も、どちらかが毎日毎日世話をしています。障がいがあるため、巣立ちはできません。ですから、一生、毎日毎日世話をします。

娘たちの心は純粋

私の娘たちは、純粋です。「こういう事をしたら、人はどう思うだろうか。どう対応したら、悪く思われないだろうか?」等、考えないというか、考える知能を持っていません。何事にも、ストレートな反応を示します。いやな事はいや。好きな事は好きと。

療養管理や介護サービス等で、日曜日以外の毎日、訪問看護師や訪問介護士のお世話になっています。特に妹の杏菜は、若いイケメンの看護師や介護士が来ると、相手に申し訳ないくらい目をギラギラさせ見つめます。興味がないと、申し訳ないくらい眠り続けますが。

とにかく、食べ物や遊びも中間的判断はありません。イエスかノー。右か左。上か下。こういう態度が、健常な人から見ればピュアに見えるのかもしれません。

親子の絆を強くするもの

それはともかく、本当に親子の絆を強くしているものは何か。それは、日々、子どもへ愛情を注いでいる「親の言動」にあると思います。
私たち夫婦は、常に子どもの事を考え、一生懸命身の回りの世話をしています。普通の子供に、「そこまでやってあげれば自立ができない。」「子どものような大人が育ってしまう。」と言われるかもしれませんが、それは、先ほどの野鳥のように、親が責任を持って、親離れの時期を判断すればよいと思います。

小さい頃から、共働きのために保育園に預け、子育ては他人任せ。何故共働きをするのでしょうか。車が欲しいからでしょうか。良い家に住みたいからでしょうか。贅沢な生活がしたいからでしょうか。

せめて、3歳くらいまで一緒に過ごしてあげられないものでしょうか。もっと、側で抱きしめてあげられないものでしょうか。

各家庭、諸事情があり、そう簡単なことではないとお叱りを受けるかもしれませんが、共働きしたくてもできなかった環境でしたので、ついそう思ってしまいます。

私は、娘をお風呂に入れる時や車に乗せる時、一瞬ではありますが、グッと抱きしめ、顔と顔をグッとくっ付けます。娘は嫌がっているかもしれませんが、表情を見る限りは、喜んでいると思います。そうすれば、家庭内暴力、校内暴力等、異常な行動をする子どもは、確実に減少するのではと思っています。

親が祖父母にしたように 子は親に

親がまず、我が子や祖父母を大切にする。だから、子どもが親を大切にし、他人も大切にする。親の愛が十分だからこそ、その愛の一部を他人に分かちあえる。と感じる事が仕事上多々あります。
高齢者のお世話を長年やっていると、つくづくそう思う場面に遭遇します。

東日本大震災から、今年の3月11日で11年経過しました。その後、「絆」ということが盛んに叫ばれています。親子の絆がないのに、地域の絆はあり得ないと思います。娘が、そう教えてくれたような気がします。

あんずパパ
あんずパパ
娘達から教わったことをもっと人生に活かしていきたいと思っています。