延命治療を望むか否か
自分がもし、交通事故や重病で延命治療の処置を受けなければならなくなった時、望むか否か、元気な内に明記(表明)しておかないと、機械人間にされてしまうようなことを聞きます。
私は望みませんが、家族にも望んで欲しくありません。
ガンは、自分の細胞が変化したものだそうです。初めて知った時は、驚きました。
自分の細胞に殺されるとは、どういう事なのか。考えようによっては、意思とは別物ではありますが、自殺とも取れます。
もともと自分の細胞に、時限爆弾が仕込まれていて、ある時期がきたら「バーン」と、爆発してしまう。
これが寿命と思えれば、手術もしなくて済むのでしょうが、人間問わず、生きものは生きることが最大の使命です。
長生きをしたいと思うのが自然でしょう。
命に対する考え方の変化
私の場合、寿命が二十歳くらいと宣告を受けた娘たちと暮らしていると、命にたいする考え方が、様々な体験をする度に変化していきました。
様々な体験とは、娘が生死を彷徨う事態に何度も接してきた体験のことです。
人工呼吸器を付けるかいなか、付け続けるか外すか。胃ろうの手術をするか否か。迷うのが当たり前です。
迷ったあげく自分が出した答えは、「すべて正解だ」と思ってきました。
そうでなければ、全ての判断に後悔が付いて回りますし、答えは怖くて出せません。
誰かが判断を下さなければ、この話は進みません。
2回目の余命宣告と延命治療の確認
長女の杏子の場合、19歳のある日2回目の余命の宣告を受けました。
日赤病院の主治医から、「心臓が肥大して、いついってもおかしくありません。」と、相談室で2回目となる宣告と、いざという時の延命治療に付いて確認がありました。
「20年前に覚悟は決めています。延命治療は、しないでください。少しでも苦痛がないような形で、旅立たせてください。」と、お願いしました。
ついでに、なぜ慎重に説明や確認(インフォームドコンセント)をされるのか、先生に聞いてみました。
すると、「いざという時になると、親がパニックになり延命治療を望まれる場合があるので、念のためにやっています。」ということでした。
人工呼吸器を付けるという選択
ある日、いよいよ次女の杏菜も人工呼吸器を付けるか否か、判断しなければならなくなりました。
この子なりの、「死への準備」の始まりだと思いました。
医療者は、人工呼吸器を付ければ寿命が延びると言うでしょう。本当にそうなるのか、信じがたいと思っていました。
人工呼吸器を付けない場合の寿命が、数字で表すと10だとします。
素人的考えですが、自ら呼吸できる残存機能が残っている時に、弱ってきたからと機械の力を借り始めたら、加速度的にその力は衰えるのではないのか。
付けてしまえば、自力での10の寿命が半分の5になり、機械の力で3伸びたとしても、差引8にしかならない。
人の命を算数的に考えるのは、いかがなものかと思いますが、正直そんな計算をしていました。
人工呼吸器を付ける前の方が、はるかに子ども自体は楽だったような気がします。医療的には付けた方が楽でしょう。複雑な心境です。
確かに、医療的に考えれば酸素濃度が下がっている分、身体的には辛いことなのかもしれません。二酸化炭素の血中濃度が高くなる分、昼間も寝てばかりいるのかもしれません。
しかし、20年も(当時)一緒に暮らしているからこそ、話すことが出来ない娘の表情から感じ得るものがあると思いました。
人工呼吸器を付けてからというもの、一週間に一度のスキンシップであるお風呂に入れてやれなくなりました。気軽に好きなドライブへも行けなくなりました。
気管に差し込まれたカニューレ(プラスチックの管)の刺激で、少し動かしただけでもゲホゲホと苦しそうに咳き込む姿は、見ていられません。
子どもにとって吸引は、相当辛くいやな行為なのです。
確かに酸素濃度が上がり、脈拍も落ち着き、医療的には人工呼吸器を付けた事が娘の日々のQOLの質を上げているのも事実です。
付けたことに複雑な気持ちになることも今でもありますが、先に書いたように、「自分が出した答えは、全て正解。娘のためになっている。」と言う考え方を大切にしています。
私の「子供の終末期」への心構え
終末が近い子どもの親としての心構えを、自分なりに考えてみました。
これからの治療方針は、子どもの病状や命を
進めるのでもなく 早めるのでもなく
遅らせるでもなく 止めるでもない
この子なりの終末への準備の手伝いをすること…
長女の死を体験し、宣告を受けた年齢を過ぎた二女を目の前にして、私なりに考えた事です。
結論とまでは言い切れませんが、酸素低下の非常アラームの音で眠れない日々の中で考えた事です。
「あと何年、何日生きてくれるだろうか。来年の父の日もよろしくね。」と願っています。
毎朝起きたら、真っ先に安らかな寝顔を確かめるためにベッドのところに行きます。
最近まで唯一動いていた小指をそっと握り、顔にそっと手を当てます。
「今日も大丈夫」と、心の中で呟きながら、一日が始まります。
命が限られた、二十歳という余命を過ぎた子どもと暮らすという事は、長女の時もそうでしたが、何とも表現できない心境です。
昨年の秋頃、原因不明の微熱が出て痙攣が何回も続くことがありました。いよいよ来るべき時が来たかと、日赤病院の救急外来に連れていき入院となりました。
一瞬「しまった!!!」と思いましたが、既に後の祭り。新型コロナウイルス感染症の事を忘れていました。
結果、10日ほど入院して退院できましたのでほっとしましたが、親子入院していた妻とも面会禁止。面会に行っても、差し入れや洗濯物など荷物をスタッフに渡すだけの日々が続きました。